白血病の兆候と言うと、赤血球減少による貧血、息切れ、動悸、倦怠感、白血球減少による発熱、血小板減少によるあざや鼻血、歯ぐきからの出血といった様々な症状が見られます。

私の場合これらの一般的な症状は見られませんでした。

経験談として、私が白血病を発症する前に起こったいくつかの兆候についてお話したいと思います。

◎診断を受ける半年ほど前から◎

突然視界が半分黒くなる(15分ほど)

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その後、殴られたような酷い頭痛や目眩に襲われ立っていられなくなる(30分〜1時間)

この症状が何がきっかけかは分からないほどバラバラなタイミングで起こります。大概少し休んだら治るので酷い偏頭痛だと思っていました。視野が黒くなるということを分かりやすく画像にしてみたのがこちらです。

キラキラと星のようなものや黒い細長い虫が飛んでいるような見え方をすることもありました。

◎診断を受けた日の朝◎

腰が痛くとてもだるい(インフルエンザに似た症状)

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病院に行き、熱を測ると38℃

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骨髄穿刺により白血病と診断

このような流れでした。

あざや出血などは見られなかったため、はじめは自分が白血病だとは疑いませんでした。学校と3歳の頃から習っていたバレエがとても忙しかったため、疲れなどから来る貧血や偏頭痛だろうと思っていました。

白血病だとしても、一般的な症状が出ない場合もあるようです。

白血病は早期発見、早期治療をすれば治らない病気ではない時代になりました。私の例を知り、少しでも異常がある同じような症状があると感じられたら病院を受診することをおすすめします。

私が病気になってからというもの、母は私に対して異常なほど過保護になりました。文字通り、過剰に保護していたということです。

甘やかすとか束縛という意味での過保護ではなく、私を見えないものから守るための保護でした。

母の過保護は、私が病気になったその日から始まります。

実は、私は病気が完治するまで自分が白血病ということを知らずに闘病していました。両親や医者、看護師、誰一人として私に病名を伝えなかったのです。知人程度の知り合いはもちろん、私の親友と呼べる友達にも全く知らせていませんでした。知っていたのは献血やドナーに協力してくださった方、数名のみ。徹底して隠し通したのです。

なぜ私に知らせなかったのか。

病気が発覚した当日、私は何も知らずに突然骨髄穿刺(マルク)を受け、疲れたのか点滴をされたままベッドで熟睡していました。父と母はその間に白血病という宣告を受けたのだと思います。

娘が白血病というになった。

ショックですよね。

わけが分かりませんよね。つい昨日まで楽しそうにバレエを踊っていた娘が突然白血病なんて、信じることすらできなかったと思います。

数日後に期末テスト、一ヶ月後に国際コンクールを控えていた私は2、3日入院したら治ると思っていたので

目が覚めた私は、呑気にテスト勉強をするために理科のファイルを広げて、「いつ帰れるのー?」と先に病室に帰ってきた父に聞きました。

「当分帰れないんじゃないかな。」

そう、父は答えたと思います。

その時は父の言うことの意味があるさっぱりわかりませんでした。

きっとこの時に母は、私には病名を伝えないという選択をし、父にはもちろんのこと、医師や看護師にも徹底するよう頼んだんだと思います。

インフォームド・コンセントやインフォームド・アセントという言葉をご存知ですか?医師が患者に病気のことや治療のことについて説明し、患者が合意した上で治療を進めていくという法律のことをいいます。相手が子供だとしても同じことです。

つまり、結果的に私はインフォームド・コンセントを無視して治療されたということです。きっと医師は中学2年生の子に伝えないというのは、立場上有り得ないこと、考えられないことであったと思います。しかし、私の母は隠し通す決断をしたんですね。

もちろん、私は気にならなかった訳ではありません。たくさん検索もしました。あまり覚えてはいませんが、白血病なんじゃないかと疑った時期もあると思います。ただ、母に聞いても返ってくるのは「血液の病気」「酷い貧血のようなもの」「すぐ治るよ」オンリー。笑

酷いと思われますかね。

私は愛だと受け取りました。

なんで事実を教えてくれないのか。看護師さんも口を滑らせて「抗がん剤入りますね」と言ってたのに、まだ癌じゃないと言い切るのか。と母を憎んだこともあります。

しかし、心のどこかで(癌じゃないのか)(絶対治るのか)と母のいうことを信じて安心している自分がいました。もし、なにか病名があるのだとしても、これだけ母が隠していることを暴いて、事実を知ってなにか意味はあるのだろうか。とにかく治ることだけを考えて入ればいいよね、きっと母も病名を口に出したくないんだよね、治ると信じていたいんだよね。病名を知ったから治るというわけではないし、別にいっか。

そういう考えで、私は調べるのをやめました。

知ったら不安になるかもしれないこと。

知らない方が治ることだけを考えて毎日を過ごせること。

母は私を病名から保護したのです。

そういう母親がいたっていいですよね。実際、私は闘病中お気楽に過ごしていましたから。白血病という病名に飲み込まれることなく、寛解を迎えましたから。

NEXT▷母の想い  2

先日、復学の話をしましたが、実は復学より先にバレエ復帰をしていました。

なにせ、バレエをすることだけを目標にして治療を頑張ってきたので待ちきれなくて待ちきれなくて。

とはいえ、移植後すぐには以前と同じようにバレエ教室でみんなと同じメニューをするのは体力的にも感染面的にも難しいです。

そのため、バレエ教室がお休みの日に、教室を開けてもらい個別でレッスンをしていただきました。

ウィッグをつけて、マスクをつけてレッスンをすると、汗で蒸れて暑いし痒いしでとても辛い。

今でこそ、マスクがおしゃれの一部という時代になりましたが、コロナが流行る前まではマスクは風邪をひいた時につけるものという認識が強く、暑苦しいし好きじゃないという人も多かったですよね。みんながマスクをつけ、除菌をし、適度な距離感を保つようになり、免疫力が弱っている人からしたらこの世の中の風潮は少し有難いものだと思います。

個別レッスンでは筋力も落ちていて、はじめのうちは何をするにも体が重たく、手足が自分のものじゃないような、バラバラなような感じがしました。なんだか、全然できない自分が情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。

だけどそれ以上に、踊れる喜びというのを感じました。ブランクを感じて悲しいと思う反面、あんなに辛い闘病生活を乗り越えてきたんだ、ここからまたやり直せる、みんなに追いつく、追い抜きたいという前向きな気持ちがとても大きかったです。

また、私が早くからバレエに復帰したのには訳があって、その年の冬に教室の発表会があったから。私はどうしてもその舞台に立ちたくて、先生になんらかの形で出演させて貰えないか相談しました。

まだみんなと一緒に練習は出来ませんし、長いこと踊るのも体力的にしんどかったので、先生は短いバリエーションを一人で踊ることを提案してくださいました。

1分〜1分半あるかないかくらいの短い踊りですが、体力が皆無になっていた私にはとてもきつかった。家の近くの公民館の一室を借りて母と二人で何度も練習をしました。

その時、髪の毛は生えたてほやほやで薄ら後ろで結べるか結べないかというくらいでした。本番はウィッグではなく自髪でお団子にまとめて出たかったため、色々と試行錯誤し、一つ結びに付け髪をつけてネットでお団子にまとめることにしました。また、前髪も短く落ちてきてしまうため、髪色に近いターバンをつけ、白髪隠し用の黒いスプレーを吹きかけました。周りは無理だと言ったけれど、絶対できる、絶対やってみせるという意地で不可能を可能にしました。

発表会本番、私の出番にはバックスクリーンで私の踊っている動画を流しながら放送で私の闘病を語るという演出をしてくださいました。(動画はInstagramに載せています。)

https://www.instagram.com/miraclegirl___22/

私の復帰公演をこのように特別なものにしてくださった先生にはとても感謝しています。緊張はしたし、トゥシューズではなくバレエシューズだし、筋力もないしで納得のいく踊りではありませんが、でも、踊れる喜びを噛み締めて、とても幸せな気持ちで踊らせて頂きました。

小さい頃はプロのバレエダンサーになるという夢を持っていましたが、闘病を終えてバレエ復帰をした私はバレエという芸術を楽しみたい、とにかく楽しく踊っていたいと思うようになりました。

当時、私の通っていたバレエ教室は丁寧で熱心ではありましたが規則や指導が厳しく、発表会後みんなと一緒にレッスンを受けていく中で私はあれだけ好きだったバレエが嫌になってしまいました。

闘病中、バレエが踊れることを楽しみに、あれだけ頑張ってきたのにどうして練習を厳しい、苦しいと思わないといけないんだろう。同じバレエを踊るなら、楽しく踊りたい、どんな時でもバレエが大好きという気持ちでいたいと思ったのです。

そのため、たくさんお世話になったバレエ教室に感謝しつつも、高校からは別のバレエ教室へ移ることとなりました。

新しい教室では本当にたくさん踊る機会を頂きました。体調を考慮した上で、それでもいろいろな舞台や国内外のコンクールに挑戦させてくださり、楽しく、自由に踊らせてくださいました。また、優しくて、面白く、個性豊かな友達と出会えたことも、私の宝です。

病気になるってなんでしょうね。

私は約2年間の闘病生活で、移植後もGVHDや感染症を引き起こすことなく過ごすことが出来ました。でも、中にはもっともっと長く、終わらない闘病生活をしている人もいる。治療をしても感染や再発で苦しむ人もいる。

私は闘病中、ネットやテレビで、キラキラ輝いている人を見るのが大嫌いだった。健康で髪の毛もあって、ずるい、羨ましい。

だから、今闘病中の人が私のことを見たら嫌な気持ちになってしまうかもしれない。だって、髪の毛もロングヘアだし、毎日健康だし。

でも、知って欲しい。私も白血病だったってことを。髪の毛は最初はショートヘアだけど絶対に伸びてくるし、筋力もついて運動もできるようになる。コンクールに出て賞だって貰えるようになる。看護師という新しい夢もできて、勉強がもっと楽しくなる。

入院中、こうやって断言してくれる人が私の前に現れたらどれだけ救われただろうか。

病気が

神様が与えた試練だとしたら、乗り越えることに意味があるし、絶対に昨日の自分、数分前の自分より強く、誰にも負けない存在になってるはず。

ですよね。

NEXT▷妊活を急いだ訳 1

移植から約2ヶ月後に無事に退院してからは、当分の間自宅と病院との行き来でまだまだ復学できる状況ではありませんでした。

その間、学年主任や担任の先生は何度か個別で家庭訪問をして下さり、色々とお話ししました。学校の事、友達のこと、授業のことはもちろん、普段の生活や、入院中のことなど学校の先生というよりは話し相手として来てくださっていたように思います。

本格的に復学をしたのは移植から約半年後、中学3年生の秋のことでした。私の学校は中高一貫であったため、高校に上がるための学内テストを受ける必要があり、そのテストに合格しないと高校には上げることはできないと言われました。

無菌室にいる間、本などの印刷物は極力持ち込まない方がいいと言われたため、課題や授業プリントなども私の場合は持ち込みを控えていました。バレエや学校の友達が色紙や手紙なども書いてくれていましたが、母が全てビニール袋やジップロックに入れて保管し、徹底的に外部からの細菌・ウイルス等の侵入を遮断していました。

その代わりというのか、iPadやDVDプレーヤー、Wiiを病室に持ち込み、これまでの人生の中で最大にグータラして過ごしました。復学をするにあたって、入院中にもっと勉強しとけば良かったのにと思われるかもしれません。しかし、私はこのグータラ入院生活を後悔していません。なぜなら、それまで学業にバレエにと本当に忙しかった。ゆっくり友達と遊ぶ暇もなかった。学校の行事にもまともに出れないほど根詰めてバレエに励んでいた私はどこか心の片隅に休息を必要としていたのです。

もちろん、白血病を発症し、バレエが出来なくなり学校にも通えなくなった私はとてつもない絶望感を抱きました。でも、今は治療に専念するしかないと吹っ切れた時、何もしない選択をしました。今まで出来なかったこと、きっとこれからの人生でもしないだろうことを思う存分やってしまおうと思ったのです。

そのため、無菌室でスーパーマリオギャラクシーは制覇したものの、学校の勉強はまるっきり置いてけぼりでした。

復学をするために、無菌室を出て四人部屋になった時から勉強を始めた私ですが、√(ルート)という新しい記号が出てきていて驚いたのを今でも覚えています。仲のいい看護師さんや時には主治医の先生に勉強を教えて貰ったりしました。

復学準備段階では、各教科の先生が個別で高校進学のためのテスト対策をしてくださいました。また、学校の先生の計らいで、中学三年生の時のクラスは私の大親友達が勢揃いしていました。そのおかげもあり通院等で遅刻しても教室に入りやすい環境があり、私はとてもスムーズに復学できたように思います。

ウィッグにマスクをしての登校で、髪の毛やムーンフェイスといった見た目の違いを自分自身とても気にしていました。何が一番しんどかったかと言えば、ちょうど卒業アルバムの写真撮影があったことですね。いま見返しても、私の顔は明らかに別人のようです。

勉強の方も、遅れを取り戻すため必死でした。一日中机に向かっている時もありました。でも、勉強することが苦ではなかったです。入院中、全く勉強しなかったことでさすがに勉強したいという気持ちが湧いてきたのだと思います。

そして、高校三年生の冬、無事にテストに合格し高校への進学許可をもらうことができました。一時は他の高校へ行くことも考えましたが、先生方や友達、両親の支えがあり同高校へ進学することができたこと本当に感謝しています。

勉強にしても、趣味にしても、家族や友達との時間もどんなことでも、失って初めて当たり前にできることの有り難さ、幸せを感じることができました。当たり前だと思っていたことは当たり前ではない、健康で平和な世の中だからこそ出来ていたことなんだと改めて実感しました。

病気が治り、神様が再び私に与えてくださった、何事にも感謝して生きるというチャンスを無駄にしないよう生きていきたいです。