前回の投稿の続きです。

前回もお話したように、母は見えないものから私を守るために必死でした。放射線や抗がん剤、薬などもちろん治療のために必須ではありますが体にとっては有害でしかありません。治療のためとはいえ、脱毛や吐き気、倦怠感や口内炎、味覚障害など様々な副作用が出るということは、体が何らかのSOS反応を出しているということだと思います。言い方は悪いかもしれませんが、最終的に骨髄移植をするために自分を殺すようなもの、治療中私はそう感じていました。もちろんそうすることによって生かされる、生きていられるのですが、できるだけ早く体から異物を排出する、できるだけほんの少しでも放射線により体が侵されるのを防ぐことが出来ればと考えたのが母です。

骨髄移植の前処置に伴い、放射線治療は妊孕性を失わせる可能性があると説明された時も、母はいかに放射線から私の子宮を守るかを考えていたため、禁忌事項ではありますがより体内に吸収されやすいビタミンCのサプリメントを私に摂らせていました。

ビタミンA やビタミンC は大量に摂ると放射線治療の効果を下げる可能性があるといわれています。そのためサプリメント自体、治療中は控えるように指示されますが、母はその情報を逆手にとって適度なビタミンCを摂らせることで必要以上に体が放射線に侵されるのを防ごうと考えたのです。

それこそ、主治医の先生に見つかったら何を言われるか分かりませんので、こっそりと病室に忍ばせていました。

その他にも、ノニジュースやバイオリンク、酵素など母が選びに選び抜いたものをほぼ毎日のように治療と並行して飲み続けていました。

また、退院後の食生活には特に気を使っていたと思います。お米を玄米にしたり、有機野菜を使用したり、普段私たちがコンビニやスーパーで買う食材の殆どに発癌作用のある物質が含まれているため、そのようなものはなるべく避けて買い物をしていました。

玄米は一般的な白米では削られる皮や胚芽、ぬかがついたままで白米よりも硬めの食感なのが特徴です。この硬さや色味、味などが苦手という方もいらっしゃいますが、削り取った皮や胚芽、ぬかにこそ玄米の栄養素が含まれています。ビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでおり、人間が健康を保つために必要とされる栄養素をほとんど摂取できるため、“完全栄養食”と言われます。

昔の人は精米されていない玄米を主食としていました。母はこの昔の人の食事に目をつけました。

広島や長崎に落とされた原爆について知らない方はいないと思います。放射能により多くの方が後遺症に悩まされたのも有名な話ですよね。しかし、被曝された方の中には症状が出ることなく今でも元気に生きていらっしゃる方もいます。もちろん放射線を浴びた量は少なからず関係していますが、それでも素晴らしい回復力、生命力ですよね。そこには戦後なかなか食べ物が手に入らなかった時代でも玄米や無農薬の野菜、梅干し、漬物など質素ながら体にいいものを食べていたことが影響していると思うのです。

体は、食べたもの、飲んだものでしか成りません。逆に言えば、体に取り入れたものが全て体のためになるのです。

そう思ったらただでさえ、治療のために様々な薬や放射線を浴びてきた体に、悪いものを入れることなどできませんよね。

いま、改めて母の考えに納得です。

NEXT▷母の想い 3

治療は化学療法が主でした。

治療についての詳しい内容については追々書いていこうと思います。

抗がん剤による副作用は脱毛を始め、吐気、倦怠感、骨髄抑制等があります。また、様々な薬の内服・投与や毎日の採血、点滴、検査等。

こんなに辛いのいつまで続くんだろう、友達はどんどん前に進んでいるのに(勉強やらバレエやら)どうして自分だけ、、、。現実を受け入れられない日々が続きました。

それでも、私が頑張って治療を続けてこれたのは、

「早く治ってバレエがしたい!踊りたい!」

という強い目標があったから。

一緒に踊っていた仲間がコンクールに出たり、舞台で楽しそうに踊っていたりと、そんな姿を見るのは正直苦痛でしかなかった。

自分も早く踊りたくて踊りたくて仕方なかった。

点滴台を支えにして病室の窓を鏡代わりにして1人でバーレッスンをやっていました。ベッドの上でストレッチや甲伸ばしも欠かさず行っていました。体は動かせるのに、無菌室という隔離部屋から出れないことがもどかしく、それに加え日に日に抜けていく髪の毛を見ながらただただ絶望感を抱きました。ネット検索で髪の毛は一日に何ミリ生えて、どれくらいの日数で元に戻るのかなどを調べたりもしていました。もちろん男性の方もですが、女の子、女性にとって髪の毛というのはとても大事なものですよね。

そんなもどかしい気持ちを、病院の先生や看護師、家族は毎日のように聞いてくれました。

小児病棟ではなく、一般病棟に入院してきた中学生の女の子ということで、病院スタッフは何かと気にかけてくれ、可愛がってくださいました。

「絶対また踊れるようになるよ」

「色々なことを経験して、色々な感情を持ったまりあちゃんは病気になる前よりもずっとずっといい踊りが踊れるようになるから」

「次に舞台に立つ時は、絶対見に行くから招待してね」

などと言ってくれたことがどれほど私の励みになったことか、計り知れません。

このような支えがあったからこそ、絶対にまた舞台で踊りたいと強く願い、闘病生活を乗り越えて再び舞台に立つことができたら、きっと同じような病気の子供たちの希望になる。と、自分自身を勇気づけていました。

NEXT ▷ 骨髄移植

9年前、風邪のような症状が何日か続き、近くの病院で診察を受けましたが風邪と診断。

数日後、座っていられないほど腰が痛くなったため、学校を休み母と総合病院へ行きました。整形外科を受診したところ、その医師の的確な診断により病気を発見してくださり、私は訳も分からず別の病院へ行くことになりました。

説明もないままたくさんの検査をされ、気づくと窓の外は真っ暗に。出張先から駆けつけた父に「いつ帰れるの?」と聞いた記憶があります。早く帰りたいと思っていた私の思いも虚しく、連れていかれたのは無菌室というビニールに囲まれた殺風景な一人部屋。

そこで医師に告げられたのはこれから約1年間は入院しなければならないということでした。

それまで、バレエ漬けの生活を送っており数週間後に国際コンクールを控えていた私にとって、1日でもバレエを休むことが悲しくて、悔しくて毎日毎日泣きました。病院の先生や両親に当たってしまう事も多くありました。

当時、両親の希望で私には伝えられていませんでしたが、私の病気は「急性骨髄性白血病」という小児には珍しい型の白血病でした。

思えば症状はもっと前から出始めていたのかも知れません。学校での体育やバレエの途中に、急に視野の3分の2が暗くなり見えなくなることがありました。そして、その症状は30分後くらい続き、治ったと思ったら今度は急激な偏頭痛のような痛みに襲われるのです。

割と体に症状が出ていたのにも関わらず、それが異常と思わず友達と過ごすことやバレエが大好きだった私は「今休んだら、時間がもったいない」「もっと遊びたい、練習したい」という心理が働き、身体を労ることをしませんでした。我慢強いとかそういうことではなく、当時の私はただただ自分の身体に関する知識がなかったのです。

NEXT▷ 辛く、長い闘病生活