-皮膚GVHDについて-

造血幹細胞移植後は、さまざまな副作用や合併症が起こりますその中のひとつである皮膚のGVHDについて今回は話したいと思います。

移植片対宿主病(GVHD)は、同種移植後に特有の合併症で、ドナー由来のリンパ球が患者の正常臓器を異物とみなして攻撃することによって起こります。重症化すると治療が難しく時に命に関わることもある合併症です。実の所、軽症のGVHDであれば起こったほうが白血病の再発が減り、患者さんの予後がよくなることが知られています。これは、移植後に残存している腫瘍細胞を異物とみなして攻撃する免疫反応によるもので、「移植片対白血病効果(GVL効果)」といいます。そのためGVHDの治療では、GVHDによる臓器障害という悪い側面と、GVL効果による再発減少というよい側面の、相反する反応をバランスよく管理することが重要です。

幸いなことに私は、移植後に重度の消化管GVHDを発症することはなく回復していきましたが、移植後10日が経ったころ、全身に赤い発疹が見られました。一ヶ月後にはさらに酷くなり処方されたヒルドイドローションを使用して過ごしていました。2、3ヶ月は発疹が続いていたように思います。また、GVHDかは定かではありませんが耳鳴りや頭痛は常にありました。

今現在、皮膚GVHDは頭皮(髪の毛に隠れている部分のみ)に見られます。年中頭の中が乾燥しており、冬季の乾燥が特に酷い時は地肌が砂漠のようになり、少し髪をとかしただけでふけが大量に出るなんてこともあります。

頭皮の砂漠化

学生の頃はブレザーにふけが落ちると目立つので寒いのを我慢して、カッターシャツで過ごしていました。現在では少しでも頭皮を保護するために、無添加の敏感肌用シャンプーを色々試したり、頭皮の保湿を徹底するなど対策をしています。

脆弱な肌には紫外線を浴びるかことは良くないので、外に出る時は帽子を被ったり、なるべく日陰を歩いたり気をつける日々です。

また、風邪や身体的な疲労が免疫力を低下させ、GVHDが出現しやすくなる原因となります。日頃から規則正しい健康的な食生活や感染対策をし免疫力を低下させないことが大切だと感じます。

移植を受けた患者の皮膚は、移植前処置(化学療法や放射線治療)により皮膚の再生に必要な基底細胞や皮脂膜の機能が障害され、薄く乾燥して傷ができやすい状態となります。そのため皮膚GVHDがない場合でも非常に弱い状態となっており、予防のためにケアを継続的に行うことが大切です。食事や栄養補助食品などで積極的にビタミンB、ビタミンCを取り入れ乾燥を防いだり、新陳代謝を向上させることで皮膚GVHDの症状を最小限に抑えられると考えています。

私自身、まだまだ頭皮の乾燥に悩まされる日々ですので、今後も意識して肌のケアを続けていきたいと思います。

私的に使用して良かった、効果があったと思うケア商品なども今後まとめて記事にしたいと考えています。地肌が潤い健康的な頭皮を取り戻したいと切実に願います。

前々回、前回の続きです。

これまでいかに母が過保護かということについてお話してきました。私を絶対に完治させるために、母が命にかけて徹底してきたこと。それは感染症対策です。

免疫力が低下しているがん患者にとってもっとも恐ろしいのは感染症にかかることです。免疫力のある健康な人は感染症にかかっても重症化することなく快方することが多いですが、易感染宿主の場合、肺炎などを引き起こし最悪の場合死に至ることがあります。思っているよりあっという間で呆気なく重症化に至ってしまうのです。最近、またコロナ感染者が増えてきたという報道がされていますが、闘病中の身からしたら不安で仕方ないですよね。病院でクラスターが発生してしまったらどうしよう、無症状感染者と接触してしまったらどうしよう、このまま面会が制限されたままだったらどうしよう等、一時退院が許されたところで気が気ではないと思います。

今だからこそ、私の母が私のためにしてきた感染症対策をお話するべきだと思いました。潔癖症とかではなく、見えない菌やウイルスが見えるようになったという方が正しいと思いますが、とにかく異常なほど感染症対策をしていました。

まず、入院中にしていた対策について。

無菌室に入院している間、常に点滴をしていると思いますが新しい薬剤を追加する時、ルートを繋げるために看護師がアルコールの脱脂綿で接続部を清潔にしますよね。母は常に看護師の行為を見張っていました。清潔な手で触っているか、しっかりと消毒をしているか、清潔な面が不清潔な部分に触れていないかなどです。

清潔、不清潔の概念は看護学で学ぶのですが、一旦消毒をしたものや新たに袋から取り出したものは「清潔」、清潔なものを一瞬でも消毒していない場所(床はもちろんベッドの上や机の上など)や手で触れてしまったものは全て「不清潔」と考えます。

看護師も人間ですから完璧ではないんです。うっかりということは医療従事者たるものあってはならないのですが、万が一あった場合それを注意できるのは自分及び付き添いしかいません。しっかりと見張る、観察することも命を守ることに繋がると思います。

もちろん、床はいくら掃除したとしても不清潔な所なので、布団や点滴のルートなどが床につかないようにいつも意識していました。

また、持ち込むものは基本的に全て除菌です。アルコールのウエットティッシュで全て拭いていました。ちなみにお見舞いなどで貰った色紙や手紙、物などは密閉された袋に入れて渡されるか、白血球数が回復するまでするまで病室には一切持ち込まれませんでした。外部の人が触ったものを病室に入れること=菌の持ち込みと考えていたんですね。その他、コップや箸、お皿、歯ブラシ等直接口に入るものは全て使い捨てを用意していました。使い捨てだといちいち煮沸消毒をする必要ないですし。

次に退院してからの対策について。

基本的に家にいる時以外は常にマスクをつけていました。そして復学する時も、マスクにウイルスブロッカーを首から下げ、ウイルスブロックスプレーを吹きかけて徹底的に防御体制で挑みました。少しの風邪でも重症化する可能性があるので未然に防ぐ努力をしていました。

また、食器は家族のものとは全て別にしていました。そして私が使うものは全て煮沸消毒。箸からお皿から全て熱湯消毒です。なかにはやりすぎてぐにゃっと曲がったものもあります。

移植から一年、二年と時間が経ち、外食するようになってからは常にマイ割り箸を持参していました。友達と食事する時にも持って行っていたので少し恥ずかしかったのを覚えています。

家の中では空気清浄機が二台常にまわっていました。ホコリやカビには特に気をつかって掃除を徹底的に行っていたと思います。

その他、公共の場ではあまりベタベタものに触らないだとか、咳をしている人に近寄らないだとか他にももっと色々対策をしていたと思います。また思い出したら改めてまとめようと思いますが、今回は長くなりすぎるのでこれくらいにしておきます。

正直、コロナが流行りだしてからマスクを付けていればOKというような感じで外に出ている人を見ると甘いなぁと感じてしまいます。本当に甘い。自分が完璧と言っているわけでも、上から目線で言いたいわけでもなく、ただただ「清潔」「不清潔」の概念でもっと周りを見てほしいなと感じるのです。闘病中の人が安心して病気と真剣に向き合えるよう、たまの外泊の時くらい気が休まるよう、せめて自分自身がコロナウイルスを広める媒介者にならないためにも自分の行動を見つめ直し、生活していきたいですね。

NEXT▷妊孕性について

前回の投稿の続きです。

前回もお話したように、母は見えないものから私を守るために必死でした。放射線や抗がん剤、薬などもちろん治療のために必須ではありますが体にとっては有害でしかありません。治療のためとはいえ、脱毛や吐き気、倦怠感や口内炎、味覚障害など様々な副作用が出るということは、体が何らかのSOS反応を出しているということだと思います。言い方は悪いかもしれませんが、最終的に骨髄移植をするために自分を殺すようなもの、治療中私はそう感じていました。もちろんそうすることによって生かされる、生きていられるのですが、できるだけ早く体から異物を排出する、できるだけほんの少しでも放射線により体が侵されるのを防ぐことが出来ればと考えたのが母です。

骨髄移植の前処置に伴い、放射線治療は妊孕性を失わせる可能性があると説明された時も、母はいかに放射線から私の子宮を守るかを考えていたため、禁忌事項ではありますがより体内に吸収されやすいビタミンCのサプリメントを私に摂らせていました。

ビタミンA やビタミンC は大量に摂ると放射線治療の効果を下げる可能性があるといわれています。そのためサプリメント自体、治療中は控えるように指示されますが、母はその情報を逆手にとって適度なビタミンCを摂らせることで必要以上に体が放射線に侵されるのを防ごうと考えたのです。

それこそ、主治医の先生に見つかったら何を言われるか分かりませんので、こっそりと病室に忍ばせていました。

その他にも、ノニジュースやバイオリンク、酵素など母が選びに選び抜いたものをほぼ毎日のように治療と並行して飲み続けていました。

また、退院後の食生活には特に気を使っていたと思います。お米を玄米にしたり、有機野菜を使用したり、普段私たちがコンビニやスーパーで買う食材の殆どに発癌作用のある物質が含まれているため、そのようなものはなるべく避けて買い物をしていました。

玄米は一般的な白米では削られる皮や胚芽、ぬかがついたままで白米よりも硬めの食感なのが特徴です。この硬さや色味、味などが苦手という方もいらっしゃいますが、削り取った皮や胚芽、ぬかにこそ玄米の栄養素が含まれています。ビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでおり、人間が健康を保つために必要とされる栄養素をほとんど摂取できるため、“完全栄養食”と言われます。

昔の人は精米されていない玄米を主食としていました。母はこの昔の人の食事に目をつけました。

広島や長崎に落とされた原爆について知らない方はいないと思います。放射能により多くの方が後遺症に悩まされたのも有名な話ですよね。しかし、被曝された方の中には症状が出ることなく今でも元気に生きていらっしゃる方もいます。もちろん放射線を浴びた量は少なからず関係していますが、それでも素晴らしい回復力、生命力ですよね。そこには戦後なかなか食べ物が手に入らなかった時代でも玄米や無農薬の野菜、梅干し、漬物など質素ながら体にいいものを食べていたことが影響していると思うのです。

体は、食べたもの、飲んだものでしか成りません。逆に言えば、体に取り入れたものが全て体のためになるのです。

そう思ったらただでさえ、治療のために様々な薬や放射線を浴びてきた体に、悪いものを入れることなどできませんよね。

いま、改めて母の考えに納得です。

NEXT▷母の想い 3

私が病気になってからというもの、母は私に対して異常なほど過保護になりました。文字通り、過剰に保護していたということです。

甘やかすとか束縛という意味での過保護ではなく、私を見えないものから守るための保護でした。

母の過保護は、私が病気になったその日から始まります。

実は、私は病気が完治するまで自分が白血病ということを知らずに闘病していました。両親や医者、看護師、誰一人として私に病名を伝えなかったのです。知人程度の知り合いはもちろん、私の親友と呼べる友達にも全く知らせていませんでした。知っていたのは献血やドナーに協力してくださった方、数名のみ。徹底して隠し通したのです。

なぜ私に知らせなかったのか。

病気が発覚した当日、私は何も知らずに突然骨髄穿刺(マルク)を受け、疲れたのか点滴をされたままベッドで熟睡していました。父と母はその間に白血病という宣告を受けたのだと思います。

娘が白血病というになった。

ショックですよね。

わけが分かりませんよね。つい昨日まで楽しそうにバレエを踊っていた娘が突然白血病なんて、信じることすらできなかったと思います。

数日後に期末テスト、一ヶ月後に国際コンクールを控えていた私は2、3日入院したら治ると思っていたので

目が覚めた私は、呑気にテスト勉強をするために理科のファイルを広げて、「いつ帰れるのー?」と先に病室に帰ってきた父に聞きました。

「当分帰れないんじゃないかな。」

そう、父は答えたと思います。

その時は父の言うことの意味があるさっぱりわかりませんでした。

きっとこの時に母は、私には病名を伝えないという選択をし、父にはもちろんのこと、医師や看護師にも徹底するよう頼んだんだと思います。

インフォームド・コンセントやインフォームド・アセントという言葉をご存知ですか?医師が患者に病気のことや治療のことについて説明し、患者が合意した上で治療を進めていくという法律のことをいいます。相手が子供だとしても同じことです。

つまり、結果的に私はインフォームド・コンセントを無視して治療されたということです。きっと医師は中学2年生の子に伝えないというのは、立場上有り得ないこと、考えられないことであったと思います。しかし、私の母は隠し通す決断をしたんですね。

もちろん、私は気にならなかった訳ではありません。たくさん検索もしました。あまり覚えてはいませんが、白血病なんじゃないかと疑った時期もあると思います。ただ、母に聞いても返ってくるのは「血液の病気」「酷い貧血のようなもの」「すぐ治るよ」オンリー。笑

酷いと思われますかね。

私は愛だと受け取りました。

なんで事実を教えてくれないのか。看護師さんも口を滑らせて「抗がん剤入りますね」と言ってたのに、まだ癌じゃないと言い切るのか。と母を憎んだこともあります。

しかし、心のどこかで(癌じゃないのか)(絶対治るのか)と母のいうことを信じて安心している自分がいました。もし、なにか病名があるのだとしても、これだけ母が隠していることを暴いて、事実を知ってなにか意味はあるのだろうか。とにかく治ることだけを考えて入ればいいよね、きっと母も病名を口に出したくないんだよね、治ると信じていたいんだよね。病名を知ったから治るというわけではないし、別にいっか。

そういう考えで、私は調べるのをやめました。

知ったら不安になるかもしれないこと。

知らない方が治ることだけを考えて毎日を過ごせること。

母は私を病名から保護したのです。

そういう母親がいたっていいですよね。実際、私は闘病中お気楽に過ごしていましたから。白血病という病名に飲み込まれることなく、寛解を迎えましたから。

NEXT▷母の想い  2

骨髄移植後の経過として気をつけなければいけないものに、GVHD(移植片対宿主病)があります。そもそも、白血球は自分以外を敵と見なして攻撃する性質を持っており、それにより細菌等の異物を細胞内に取り込み無害化し、からだを異物の侵入から守っているのです。

しかし、移植されたドナーの造血幹細胞がうまく患者に生着し、患者の体の中をドナーの白血球が回るようになると、このドナーの白血球にとっては、患者の体は「他人」とみなされてしまいます。すると免疫反応を起こして患者さんの体を攻撃してしまうのです。この現象による病気をGVHDといいます。

GVHDを予防するために免疫抑制剤を使用します。免疫力が低下するために風邪やインフルエンザなどの感染症にかかりやすくなる易感染性や、糖尿病、満月様顔貌(ムーンフェイス)等まだまだありますが、免疫抑制剤にはざまざまな副作用があります。

中学3年生という多感な時期を副作用と共にした私は特にムーンフェイスにとても悩まされました。顔がパンパンに腫れてしまい、体重はそれほど変わらないのに以前よりも太ったように見えていました。身内から言われた「ふっくらしたね」という一言が、とても突き刺さったのを覚えています。

また、とくに主治医の先生に言われて驚いた副作用に骨密度が減少するというものがあります。「骨がもろくなって、骨折しやすいから気をつけてね」と言われた時には(骨折する薬って何?!なんのための薬?!)と思っていました。笑

そうして、移植後2ヶ月弱の間病室のベッドで感染や清潔には特に気を遣いながら大人しくしていた私は、幸い感染症やGVHD等を発症することなく無事退院を許可されました。

話は少し逸れますが、私の母は、私が病気になってからというもの、「いかに薬や放射線から私を守るか」ということを常に意識していました。ノニや酵素、体に吸収されやすいビタミン剤など医者に交渉しつつ、時にはこっそり私に飲ませていました。それが後の早い回復、卵巣の活動再開などに繋がったか否かははっきりとは分かりませんが、母なりの懸命な対策についても追々書いていきたいと思います。(もちろん推奨している訳ではありません。治療中はいけない行為なのかもしれないのであくまで体験として。)

退院後は、一日おきに病院に通いました。県内でも血液内科としてはトップの総合病院で、朝8時に行っても診察は昼過ぎが当たり前、点滴などによる治療により帰るのは夕方という日々でした。正直、これなら入院していた方がましとおもうくらい、病院の日は長い長い一日です。

そして感染面には特に気をつけました。家族全員が手洗いうがい、除菌をし、家の中にウイルスを持ち込まないように注意していました。食器や調理器具は家族とは別のものを使用し、使う前は全て煮沸消毒。ドアノブなど私がさわなものにはアルコールスプレーで除菌。本や教材なども全て一度アルコールのウエットシートで拭いてから使用していました。調理器具や食器などに不安を抱いていたため、外食はしませんでした。

コロナという名の肺炎が世界を飲み込もうとしている今だからこそ、免疫力が低下している方は特に本気で感染症対策をしなければならないと思います。

これくらい大丈夫だろうというような気持ちの緩み、油断が命を奪うことになるかもしれません。

周りの人は患者のことなど知らずに、ウイルスを保持していながらも外を歩いているかもしれないし、患者に話しかけるかもしれない。色々と公共のものを触っているかもしれない。

自分の体を守れるのは自分しかいません。小さな子供が患者であれば家族が徹底して守ってあげる必要があります。

守れるはずだった命、救われるはずだった命を無駄にしないためにも、できることは徹底的に行っていきたいですよね。

NEXT▷ 復学について

闘病生活も半年が経ちました。

2012年の春、幸運なことに骨髄バンクよりドナーの方が見つかり、私は造血幹細胞移植を受けることができました。

私には弟がいるのですが弟とはHLAの方が合いませんでした。(HLA型の適合率は、兄弟姉妹で4人に1人(25%)と言われており、血縁関係がないと数百人から数万人に1人の確率とされています。)

骨髄移植とは移植したからといって治るというものではなく、移植後の経過は一人一人異なり予測が難しく命に関わることもあります。

その上、移植の前処置における放射線治療や抗がん剤の投与は、「将来妊娠できなくなってしまう可能性がある」と説明を受けたそうで、まだ中学生という若い女の子から親になるという将来を奪ってしまう、そのことが治療の選択において両親を一番苦しめたことだったと言います。

父はすぐに産婦人科へ行き、卵子の凍結保存などによってどうにか妊娠できる方法はないかと聞いてくれたそうですが、当時の私は幼すぎて適用できなかったとのことです。もともとバレエという芸術という名のスポーツをしていたこともあり、生理が始まるのが遅く、始まっても周期的に来ることはなかったため卵子を摘出することが困難であったのだと思います。

当時の私の主治医は、本当に腕がいいことで有名な先生でしたが、少し厳しいところがありました。厳しいと言うと先生を悪者にするようで語弊を生むのですが、とにかく命を優先に考えていらっしゃったため、私の両親は妊孕性を失うことを恐れていたことに対して叱られてしまったそうです。

移植当日、無菌室には主治医に加え2、3人の血液内科トップの先生方が揃っており、手術のように妙に仰々しく始まったのを覚えています。「移植」は輸血のように、ドナーさんから頂いた幹細胞を点滴で投与します。造血幹細胞は、点滴の管から血管内に投与されると、患者さんの骨髄に流れ着き、そこで再び血液細胞を造るようになります。感染症の防御に最も重要な好中球の生着には、通常2~4週間程度かかります。

移植後は免疫力が著しく低下しているため、感染を引き起こさないよう徹底した清潔管理、食事制限などを行いました。何もかも消毒したおかげでふにゃふにゃになった本や教科書、滲んだインク、煮沸消毒しすぎて変形したあらゆる食器など当時はやりすぎと思いもしましたが、徹底した管理こそが両親の愛だったのだと改めて感じます。

骨髄移植しか助かる方法がなかった私には、たった一人のドナーの方が唯一の頼みの綱でした。法律上、レシピエントとドナーはお互いの個人情報を知ることはできませんが、今の私があるのは名前も知らないドナーの方のおかげ。神様のような存在のドナーさんには感謝してもしきれません。

ドナーが見つかること自体、奇跡的な事だと思います。しかし、その奇跡の母数を増やせば、もっと多くの患者の移植を受けることが出来る可能性が増えますよね。現在、芸能人を始め、多くの方が骨髄バンクへのドナー登録や献血の呼びかけを行っています。

残念なことに私は輸血をしているため、献血や骨髄ドナーになることはできません。なので健康な方を本当に羨ましく思います。

新型コロナの影響で外出が困難な状況ではありますが、献血、ドナー登録をしてくださる方が一人でも多く増えますように。

NEXT▷移植後の経過

治療は化学療法が主でした。

治療についての詳しい内容については追々書いていこうと思います。

抗がん剤による副作用は脱毛を始め、吐気、倦怠感、骨髄抑制等があります。また、様々な薬の内服・投与や毎日の採血、点滴、検査等。

こんなに辛いのいつまで続くんだろう、友達はどんどん前に進んでいるのに(勉強やらバレエやら)どうして自分だけ、、、。現実を受け入れられない日々が続きました。

それでも、私が頑張って治療を続けてこれたのは、

「早く治ってバレエがしたい!踊りたい!」

という強い目標があったから。

一緒に踊っていた仲間がコンクールに出たり、舞台で楽しそうに踊っていたりと、そんな姿を見るのは正直苦痛でしかなかった。

自分も早く踊りたくて踊りたくて仕方なかった。

点滴台を支えにして病室の窓を鏡代わりにして1人でバーレッスンをやっていました。ベッドの上でストレッチや甲伸ばしも欠かさず行っていました。体は動かせるのに、無菌室という隔離部屋から出れないことがもどかしく、それに加え日に日に抜けていく髪の毛を見ながらただただ絶望感を抱きました。ネット検索で髪の毛は一日に何ミリ生えて、どれくらいの日数で元に戻るのかなどを調べたりもしていました。もちろん男性の方もですが、女の子、女性にとって髪の毛というのはとても大事なものですよね。

そんなもどかしい気持ちを、病院の先生や看護師、家族は毎日のように聞いてくれました。

小児病棟ではなく、一般病棟に入院してきた中学生の女の子ということで、病院スタッフは何かと気にかけてくれ、可愛がってくださいました。

「絶対また踊れるようになるよ」

「色々なことを経験して、色々な感情を持ったまりあちゃんは病気になる前よりもずっとずっといい踊りが踊れるようになるから」

「次に舞台に立つ時は、絶対見に行くから招待してね」

などと言ってくれたことがどれほど私の励みになったことか、計り知れません。

このような支えがあったからこそ、絶対にまた舞台で踊りたいと強く願い、闘病生活を乗り越えて再び舞台に立つことができたら、きっと同じような病気の子供たちの希望になる。と、自分自身を勇気づけていました。

NEXT ▷ 骨髄移植