前々回、前回の続きです。

これまでいかに母が過保護かということについてお話してきました。私を絶対に完治させるために、母が命にかけて徹底してきたこと。それは感染症対策です。

免疫力が低下しているがん患者にとってもっとも恐ろしいのは感染症にかかることです。免疫力のある健康な人は感染症にかかっても重症化することなく快方することが多いですが、易感染宿主の場合、肺炎などを引き起こし最悪の場合死に至ることがあります。思っているよりあっという間で呆気なく重症化に至ってしまうのです。最近、またコロナ感染者が増えてきたという報道がされていますが、闘病中の身からしたら不安で仕方ないですよね。病院でクラスターが発生してしまったらどうしよう、無症状感染者と接触してしまったらどうしよう、このまま面会が制限されたままだったらどうしよう等、一時退院が許されたところで気が気ではないと思います。

今だからこそ、私の母が私のためにしてきた感染症対策をお話するべきだと思いました。潔癖症とかではなく、見えない菌やウイルスが見えるようになったという方が正しいと思いますが、とにかく異常なほど感染症対策をしていました。

まず、入院中にしていた対策について。

無菌室に入院している間、常に点滴をしていると思いますが新しい薬剤を追加する時、ルートを繋げるために看護師がアルコールの脱脂綿で接続部を清潔にしますよね。母は常に看護師の行為を見張っていました。清潔な手で触っているか、しっかりと消毒をしているか、清潔な面が不清潔な部分に触れていないかなどです。

清潔、不清潔の概念は看護学で学ぶのですが、一旦消毒をしたものや新たに袋から取り出したものは「清潔」、清潔なものを一瞬でも消毒していない場所(床はもちろんベッドの上や机の上など)や手で触れてしまったものは全て「不清潔」と考えます。

看護師も人間ですから完璧ではないんです。うっかりということは医療従事者たるものあってはならないのですが、万が一あった場合それを注意できるのは自分及び付き添いしかいません。しっかりと見張る、観察することも命を守ることに繋がると思います。

もちろん、床はいくら掃除したとしても不清潔な所なので、布団や点滴のルートなどが床につかないようにいつも意識していました。

また、持ち込むものは基本的に全て除菌です。アルコールのウエットティッシュで全て拭いていました。ちなみにお見舞いなどで貰った色紙や手紙、物などは密閉された袋に入れて渡されるか、白血球数が回復するまでするまで病室には一切持ち込まれませんでした。外部の人が触ったものを病室に入れること=菌の持ち込みと考えていたんですね。その他、コップや箸、お皿、歯ブラシ等直接口に入るものは全て使い捨てを用意していました。使い捨てだといちいち煮沸消毒をする必要ないですし。

次に退院してからの対策について。

基本的に家にいる時以外は常にマスクをつけていました。そして復学する時も、マスクにウイルスブロッカーを首から下げ、ウイルスブロックスプレーを吹きかけて徹底的に防御体制で挑みました。少しの風邪でも重症化する可能性があるので未然に防ぐ努力をしていました。

また、食器は家族のものとは全て別にしていました。そして私が使うものは全て煮沸消毒。箸からお皿から全て熱湯消毒です。なかにはやりすぎてぐにゃっと曲がったものもあります。

移植から一年、二年と時間が経ち、外食するようになってからは常にマイ割り箸を持参していました。友達と食事する時にも持って行っていたので少し恥ずかしかったのを覚えています。

家の中では空気清浄機が二台常にまわっていました。ホコリやカビには特に気をつかって掃除を徹底的に行っていたと思います。

その他、公共の場ではあまりベタベタものに触らないだとか、咳をしている人に近寄らないだとか他にももっと色々対策をしていたと思います。また思い出したら改めてまとめようと思いますが、今回は長くなりすぎるのでこれくらいにしておきます。

正直、コロナが流行りだしてからマスクを付けていればOKというような感じで外に出ている人を見ると甘いなぁと感じてしまいます。本当に甘い。自分が完璧と言っているわけでも、上から目線で言いたいわけでもなく、ただただ「清潔」「不清潔」の概念でもっと周りを見てほしいなと感じるのです。闘病中の人が安心して病気と真剣に向き合えるよう、たまの外泊の時くらい気が休まるよう、せめて自分自身がコロナウイルスを広める媒介者にならないためにも自分の行動を見つめ直し、生活していきたいですね。

NEXT▷妊孕性について

前回の投稿の続きです。

前回もお話したように、母は見えないものから私を守るために必死でした。放射線や抗がん剤、薬などもちろん治療のために必須ではありますが体にとっては有害でしかありません。治療のためとはいえ、脱毛や吐き気、倦怠感や口内炎、味覚障害など様々な副作用が出るということは、体が何らかのSOS反応を出しているということだと思います。言い方は悪いかもしれませんが、最終的に骨髄移植をするために自分を殺すようなもの、治療中私はそう感じていました。もちろんそうすることによって生かされる、生きていられるのですが、できるだけ早く体から異物を排出する、できるだけほんの少しでも放射線により体が侵されるのを防ぐことが出来ればと考えたのが母です。

骨髄移植の前処置に伴い、放射線治療は妊孕性を失わせる可能性があると説明された時も、母はいかに放射線から私の子宮を守るかを考えていたため、禁忌事項ではありますがより体内に吸収されやすいビタミンCのサプリメントを私に摂らせていました。

ビタミンA やビタミンC は大量に摂ると放射線治療の効果を下げる可能性があるといわれています。そのためサプリメント自体、治療中は控えるように指示されますが、母はその情報を逆手にとって適度なビタミンCを摂らせることで必要以上に体が放射線に侵されるのを防ごうと考えたのです。

それこそ、主治医の先生に見つかったら何を言われるか分かりませんので、こっそりと病室に忍ばせていました。

その他にも、ノニジュースやバイオリンク、酵素など母が選びに選び抜いたものをほぼ毎日のように治療と並行して飲み続けていました。

また、退院後の食生活には特に気を使っていたと思います。お米を玄米にしたり、有機野菜を使用したり、普段私たちがコンビニやスーパーで買う食材の殆どに発癌作用のある物質が含まれているため、そのようなものはなるべく避けて買い物をしていました。

玄米は一般的な白米では削られる皮や胚芽、ぬかがついたままで白米よりも硬めの食感なのが特徴です。この硬さや色味、味などが苦手という方もいらっしゃいますが、削り取った皮や胚芽、ぬかにこそ玄米の栄養素が含まれています。ビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでおり、人間が健康を保つために必要とされる栄養素をほとんど摂取できるため、“完全栄養食”と言われます。

昔の人は精米されていない玄米を主食としていました。母はこの昔の人の食事に目をつけました。

広島や長崎に落とされた原爆について知らない方はいないと思います。放射能により多くの方が後遺症に悩まされたのも有名な話ですよね。しかし、被曝された方の中には症状が出ることなく今でも元気に生きていらっしゃる方もいます。もちろん放射線を浴びた量は少なからず関係していますが、それでも素晴らしい回復力、生命力ですよね。そこには戦後なかなか食べ物が手に入らなかった時代でも玄米や無農薬の野菜、梅干し、漬物など質素ながら体にいいものを食べていたことが影響していると思うのです。

体は、食べたもの、飲んだものでしか成りません。逆に言えば、体に取り入れたものが全て体のためになるのです。

そう思ったらただでさえ、治療のために様々な薬や放射線を浴びてきた体に、悪いものを入れることなどできませんよね。

いま、改めて母の考えに納得です。

NEXT▷母の想い 3

治療は化学療法が主でした。

治療についての詳しい内容については追々書いていこうと思います。

抗がん剤による副作用は脱毛を始め、吐気、倦怠感、骨髄抑制等があります。また、様々な薬の内服・投与や毎日の採血、点滴、検査等。

こんなに辛いのいつまで続くんだろう、友達はどんどん前に進んでいるのに(勉強やらバレエやら)どうして自分だけ、、、。現実を受け入れられない日々が続きました。

それでも、私が頑張って治療を続けてこれたのは、

「早く治ってバレエがしたい!踊りたい!」

という強い目標があったから。

一緒に踊っていた仲間がコンクールに出たり、舞台で楽しそうに踊っていたりと、そんな姿を見るのは正直苦痛でしかなかった。

自分も早く踊りたくて踊りたくて仕方なかった。

点滴台を支えにして病室の窓を鏡代わりにして1人でバーレッスンをやっていました。ベッドの上でストレッチや甲伸ばしも欠かさず行っていました。体は動かせるのに、無菌室という隔離部屋から出れないことがもどかしく、それに加え日に日に抜けていく髪の毛を見ながらただただ絶望感を抱きました。ネット検索で髪の毛は一日に何ミリ生えて、どれくらいの日数で元に戻るのかなどを調べたりもしていました。もちろん男性の方もですが、女の子、女性にとって髪の毛というのはとても大事なものですよね。

そんなもどかしい気持ちを、病院の先生や看護師、家族は毎日のように聞いてくれました。

小児病棟ではなく、一般病棟に入院してきた中学生の女の子ということで、病院スタッフは何かと気にかけてくれ、可愛がってくださいました。

「絶対また踊れるようになるよ」

「色々なことを経験して、色々な感情を持ったまりあちゃんは病気になる前よりもずっとずっといい踊りが踊れるようになるから」

「次に舞台に立つ時は、絶対見に行くから招待してね」

などと言ってくれたことがどれほど私の励みになったことか、計り知れません。

このような支えがあったからこそ、絶対にまた舞台で踊りたいと強く願い、闘病生活を乗り越えて再び舞台に立つことができたら、きっと同じような病気の子供たちの希望になる。と、自分自身を勇気づけていました。

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