-皮膚GVHDについて-

造血幹細胞移植後は、さまざまな副作用や合併症が起こりますその中のひとつである皮膚のGVHDについて今回は話したいと思います。

移植片対宿主病(GVHD)は、同種移植後に特有の合併症で、ドナー由来のリンパ球が患者の正常臓器を異物とみなして攻撃することによって起こります。重症化すると治療が難しく時に命に関わることもある合併症です。実の所、軽症のGVHDであれば起こったほうが白血病の再発が減り、患者さんの予後がよくなることが知られています。これは、移植後に残存している腫瘍細胞を異物とみなして攻撃する免疫反応によるもので、「移植片対白血病効果(GVL効果)」といいます。そのためGVHDの治療では、GVHDによる臓器障害という悪い側面と、GVL効果による再発減少というよい側面の、相反する反応をバランスよく管理することが重要です。

幸いなことに私は、移植後に重度の消化管GVHDを発症することはなく回復していきましたが、移植後10日が経ったころ、全身に赤い発疹が見られました。一ヶ月後にはさらに酷くなり処方されたヒルドイドローションを使用して過ごしていました。2、3ヶ月は発疹が続いていたように思います。また、GVHDかは定かではありませんが耳鳴りや頭痛は常にありました。

今現在、皮膚GVHDは頭皮(髪の毛に隠れている部分のみ)に見られます。年中頭の中が乾燥しており、冬季の乾燥が特に酷い時は地肌が砂漠のようになり、少し髪をとかしただけでふけが大量に出るなんてこともあります。

頭皮の砂漠化

学生の頃はブレザーにふけが落ちると目立つので寒いのを我慢して、カッターシャツで過ごしていました。現在では少しでも頭皮を保護するために、無添加の敏感肌用シャンプーを色々試したり、頭皮の保湿を徹底するなど対策をしています。

脆弱な肌には紫外線を浴びるかことは良くないので、外に出る時は帽子を被ったり、なるべく日陰を歩いたり気をつける日々です。

また、風邪や身体的な疲労が免疫力を低下させ、GVHDが出現しやすくなる原因となります。日頃から規則正しい健康的な食生活や感染対策をし免疫力を低下させないことが大切だと感じます。

移植を受けた患者の皮膚は、移植前処置(化学療法や放射線治療)により皮膚の再生に必要な基底細胞や皮脂膜の機能が障害され、薄く乾燥して傷ができやすい状態となります。そのため皮膚GVHDがない場合でも非常に弱い状態となっており、予防のためにケアを継続的に行うことが大切です。食事や栄養補助食品などで積極的にビタミンB、ビタミンCを取り入れ乾燥を防いだり、新陳代謝を向上させることで皮膚GVHDの症状を最小限に抑えられると考えています。

私自身、まだまだ頭皮の乾燥に悩まされる日々ですので、今後も意識して肌のケアを続けていきたいと思います。

私的に使用して良かった、効果があったと思うケア商品なども今後まとめて記事にしたいと考えています。地肌が潤い健康的な頭皮を取り戻したいと切実に願います。

前々回、前回の続きです。

これまでいかに母が過保護かということについてお話してきました。私を絶対に完治させるために、母が命にかけて徹底してきたこと。それは感染症対策です。

免疫力が低下しているがん患者にとってもっとも恐ろしいのは感染症にかかることです。免疫力のある健康な人は感染症にかかっても重症化することなく快方することが多いですが、易感染宿主の場合、肺炎などを引き起こし最悪の場合死に至ることがあります。思っているよりあっという間で呆気なく重症化に至ってしまうのです。最近、またコロナ感染者が増えてきたという報道がされていますが、闘病中の身からしたら不安で仕方ないですよね。病院でクラスターが発生してしまったらどうしよう、無症状感染者と接触してしまったらどうしよう、このまま面会が制限されたままだったらどうしよう等、一時退院が許されたところで気が気ではないと思います。

今だからこそ、私の母が私のためにしてきた感染症対策をお話するべきだと思いました。潔癖症とかではなく、見えない菌やウイルスが見えるようになったという方が正しいと思いますが、とにかく異常なほど感染症対策をしていました。

まず、入院中にしていた対策について。

無菌室に入院している間、常に点滴をしていると思いますが新しい薬剤を追加する時、ルートを繋げるために看護師がアルコールの脱脂綿で接続部を清潔にしますよね。母は常に看護師の行為を見張っていました。清潔な手で触っているか、しっかりと消毒をしているか、清潔な面が不清潔な部分に触れていないかなどです。

清潔、不清潔の概念は看護学で学ぶのですが、一旦消毒をしたものや新たに袋から取り出したものは「清潔」、清潔なものを一瞬でも消毒していない場所(床はもちろんベッドの上や机の上など)や手で触れてしまったものは全て「不清潔」と考えます。

看護師も人間ですから完璧ではないんです。うっかりということは医療従事者たるものあってはならないのですが、万が一あった場合それを注意できるのは自分及び付き添いしかいません。しっかりと見張る、観察することも命を守ることに繋がると思います。

もちろん、床はいくら掃除したとしても不清潔な所なので、布団や点滴のルートなどが床につかないようにいつも意識していました。

また、持ち込むものは基本的に全て除菌です。アルコールのウエットティッシュで全て拭いていました。ちなみにお見舞いなどで貰った色紙や手紙、物などは密閉された袋に入れて渡されるか、白血球数が回復するまでするまで病室には一切持ち込まれませんでした。外部の人が触ったものを病室に入れること=菌の持ち込みと考えていたんですね。その他、コップや箸、お皿、歯ブラシ等直接口に入るものは全て使い捨てを用意していました。使い捨てだといちいち煮沸消毒をする必要ないですし。

次に退院してからの対策について。

基本的に家にいる時以外は常にマスクをつけていました。そして復学する時も、マスクにウイルスブロッカーを首から下げ、ウイルスブロックスプレーを吹きかけて徹底的に防御体制で挑みました。少しの風邪でも重症化する可能性があるので未然に防ぐ努力をしていました。

また、食器は家族のものとは全て別にしていました。そして私が使うものは全て煮沸消毒。箸からお皿から全て熱湯消毒です。なかにはやりすぎてぐにゃっと曲がったものもあります。

移植から一年、二年と時間が経ち、外食するようになってからは常にマイ割り箸を持参していました。友達と食事する時にも持って行っていたので少し恥ずかしかったのを覚えています。

家の中では空気清浄機が二台常にまわっていました。ホコリやカビには特に気をつかって掃除を徹底的に行っていたと思います。

その他、公共の場ではあまりベタベタものに触らないだとか、咳をしている人に近寄らないだとか他にももっと色々対策をしていたと思います。また思い出したら改めてまとめようと思いますが、今回は長くなりすぎるのでこれくらいにしておきます。

正直、コロナが流行りだしてからマスクを付けていればOKというような感じで外に出ている人を見ると甘いなぁと感じてしまいます。本当に甘い。自分が完璧と言っているわけでも、上から目線で言いたいわけでもなく、ただただ「清潔」「不清潔」の概念でもっと周りを見てほしいなと感じるのです。闘病中の人が安心して病気と真剣に向き合えるよう、たまの外泊の時くらい気が休まるよう、せめて自分自身がコロナウイルスを広める媒介者にならないためにも自分の行動を見つめ直し、生活していきたいですね。

NEXT▷妊孕性について

私が病気になってからというもの、母は私に対して異常なほど過保護になりました。文字通り、過剰に保護していたということです。

甘やかすとか束縛という意味での過保護ではなく、私を見えないものから守るための保護でした。

母の過保護は、私が病気になったその日から始まります。

実は、私は病気が完治するまで自分が白血病ということを知らずに闘病していました。両親や医者、看護師、誰一人として私に病名を伝えなかったのです。知人程度の知り合いはもちろん、私の親友と呼べる友達にも全く知らせていませんでした。知っていたのは献血やドナーに協力してくださった方、数名のみ。徹底して隠し通したのです。

なぜ私に知らせなかったのか。

病気が発覚した当日、私は何も知らずに突然骨髄穿刺(マルク)を受け、疲れたのか点滴をされたままベッドで熟睡していました。父と母はその間に白血病という宣告を受けたのだと思います。

娘が白血病というになった。

ショックですよね。

わけが分かりませんよね。つい昨日まで楽しそうにバレエを踊っていた娘が突然白血病なんて、信じることすらできなかったと思います。

数日後に期末テスト、一ヶ月後に国際コンクールを控えていた私は2、3日入院したら治ると思っていたので

目が覚めた私は、呑気にテスト勉強をするために理科のファイルを広げて、「いつ帰れるのー?」と先に病室に帰ってきた父に聞きました。

「当分帰れないんじゃないかな。」

そう、父は答えたと思います。

その時は父の言うことの意味があるさっぱりわかりませんでした。

きっとこの時に母は、私には病名を伝えないという選択をし、父にはもちろんのこと、医師や看護師にも徹底するよう頼んだんだと思います。

インフォームド・コンセントやインフォームド・アセントという言葉をご存知ですか?医師が患者に病気のことや治療のことについて説明し、患者が合意した上で治療を進めていくという法律のことをいいます。相手が子供だとしても同じことです。

つまり、結果的に私はインフォームド・コンセントを無視して治療されたということです。きっと医師は中学2年生の子に伝えないというのは、立場上有り得ないこと、考えられないことであったと思います。しかし、私の母は隠し通す決断をしたんですね。

もちろん、私は気にならなかった訳ではありません。たくさん検索もしました。あまり覚えてはいませんが、白血病なんじゃないかと疑った時期もあると思います。ただ、母に聞いても返ってくるのは「血液の病気」「酷い貧血のようなもの」「すぐ治るよ」オンリー。笑

酷いと思われますかね。

私は愛だと受け取りました。

なんで事実を教えてくれないのか。看護師さんも口を滑らせて「抗がん剤入りますね」と言ってたのに、まだ癌じゃないと言い切るのか。と母を憎んだこともあります。

しかし、心のどこかで(癌じゃないのか)(絶対治るのか)と母のいうことを信じて安心している自分がいました。もし、なにか病名があるのだとしても、これだけ母が隠していることを暴いて、事実を知ってなにか意味はあるのだろうか。とにかく治ることだけを考えて入ればいいよね、きっと母も病名を口に出したくないんだよね、治ると信じていたいんだよね。病名を知ったから治るというわけではないし、別にいっか。

そういう考えで、私は調べるのをやめました。

知ったら不安になるかもしれないこと。

知らない方が治ることだけを考えて毎日を過ごせること。

母は私を病名から保護したのです。

そういう母親がいたっていいですよね。実際、私は闘病中お気楽に過ごしていましたから。白血病という病名に飲み込まれることなく、寛解を迎えましたから。

NEXT▷母の想い  2

先日、復学の話をしましたが、実は復学より先にバレエ復帰をしていました。

なにせ、バレエをすることだけを目標にして治療を頑張ってきたので待ちきれなくて待ちきれなくて。

とはいえ、移植後すぐには以前と同じようにバレエ教室でみんなと同じメニューをするのは体力的にも感染面的にも難しいです。

そのため、バレエ教室がお休みの日に、教室を開けてもらい個別でレッスンをしていただきました。

ウィッグをつけて、マスクをつけてレッスンをすると、汗で蒸れて暑いし痒いしでとても辛い。

今でこそ、マスクがおしゃれの一部という時代になりましたが、コロナが流行る前まではマスクは風邪をひいた時につけるものという認識が強く、暑苦しいし好きじゃないという人も多かったですよね。みんながマスクをつけ、除菌をし、適度な距離感を保つようになり、免疫力が弱っている人からしたらこの世の中の風潮は少し有難いものだと思います。

個別レッスンでは筋力も落ちていて、はじめのうちは何をするにも体が重たく、手足が自分のものじゃないような、バラバラなような感じがしました。なんだか、全然できない自分が情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。

だけどそれ以上に、踊れる喜びというのを感じました。ブランクを感じて悲しいと思う反面、あんなに辛い闘病生活を乗り越えてきたんだ、ここからまたやり直せる、みんなに追いつく、追い抜きたいという前向きな気持ちがとても大きかったです。

また、私が早くからバレエに復帰したのには訳があって、その年の冬に教室の発表会があったから。私はどうしてもその舞台に立ちたくて、先生になんらかの形で出演させて貰えないか相談しました。

まだみんなと一緒に練習は出来ませんし、長いこと踊るのも体力的にしんどかったので、先生は短いバリエーションを一人で踊ることを提案してくださいました。

1分〜1分半あるかないかくらいの短い踊りですが、体力が皆無になっていた私にはとてもきつかった。家の近くの公民館の一室を借りて母と二人で何度も練習をしました。

その時、髪の毛は生えたてほやほやで薄ら後ろで結べるか結べないかというくらいでした。本番はウィッグではなく自髪でお団子にまとめて出たかったため、色々と試行錯誤し、一つ結びに付け髪をつけてネットでお団子にまとめることにしました。また、前髪も短く落ちてきてしまうため、髪色に近いターバンをつけ、白髪隠し用の黒いスプレーを吹きかけました。周りは無理だと言ったけれど、絶対できる、絶対やってみせるという意地で不可能を可能にしました。

発表会本番、私の出番にはバックスクリーンで私の踊っている動画を流しながら放送で私の闘病を語るという演出をしてくださいました。(動画はInstagramに載せています。)

https://www.instagram.com/miraclegirl___22/

私の復帰公演をこのように特別なものにしてくださった先生にはとても感謝しています。緊張はしたし、トゥシューズではなくバレエシューズだし、筋力もないしで納得のいく踊りではありませんが、でも、踊れる喜びを噛み締めて、とても幸せな気持ちで踊らせて頂きました。

小さい頃はプロのバレエダンサーになるという夢を持っていましたが、闘病を終えてバレエ復帰をした私はバレエという芸術を楽しみたい、とにかく楽しく踊っていたいと思うようになりました。

当時、私の通っていたバレエ教室は丁寧で熱心ではありましたが規則や指導が厳しく、発表会後みんなと一緒にレッスンを受けていく中で私はあれだけ好きだったバレエが嫌になってしまいました。

闘病中、バレエが踊れることを楽しみに、あれだけ頑張ってきたのにどうして練習を厳しい、苦しいと思わないといけないんだろう。同じバレエを踊るなら、楽しく踊りたい、どんな時でもバレエが大好きという気持ちでいたいと思ったのです。

そのため、たくさんお世話になったバレエ教室に感謝しつつも、高校からは別のバレエ教室へ移ることとなりました。

新しい教室では本当にたくさん踊る機会を頂きました。体調を考慮した上で、それでもいろいろな舞台や国内外のコンクールに挑戦させてくださり、楽しく、自由に踊らせてくださいました。また、優しくて、面白く、個性豊かな友達と出会えたことも、私の宝です。

病気になるってなんでしょうね。

私は約2年間の闘病生活で、移植後もGVHDや感染症を引き起こすことなく過ごすことが出来ました。でも、中にはもっともっと長く、終わらない闘病生活をしている人もいる。治療をしても感染や再発で苦しむ人もいる。

私は闘病中、ネットやテレビで、キラキラ輝いている人を見るのが大嫌いだった。健康で髪の毛もあって、ずるい、羨ましい。

だから、今闘病中の人が私のことを見たら嫌な気持ちになってしまうかもしれない。だって、髪の毛もロングヘアだし、毎日健康だし。

でも、知って欲しい。私も白血病だったってことを。髪の毛は最初はショートヘアだけど絶対に伸びてくるし、筋力もついて運動もできるようになる。コンクールに出て賞だって貰えるようになる。看護師という新しい夢もできて、勉強がもっと楽しくなる。

入院中、こうやって断言してくれる人が私の前に現れたらどれだけ救われただろうか。

病気が

神様が与えた試練だとしたら、乗り越えることに意味があるし、絶対に昨日の自分、数分前の自分より強く、誰にも負けない存在になってるはず。

ですよね。

NEXT▷妊活を急いだ訳 1

移植から約2ヶ月後に無事に退院してからは、当分の間自宅と病院との行き来でまだまだ復学できる状況ではありませんでした。

その間、学年主任や担任の先生は何度か個別で家庭訪問をして下さり、色々とお話ししました。学校の事、友達のこと、授業のことはもちろん、普段の生活や、入院中のことなど学校の先生というよりは話し相手として来てくださっていたように思います。

本格的に復学をしたのは移植から約半年後、中学3年生の秋のことでした。私の学校は中高一貫であったため、高校に上がるための学内テストを受ける必要があり、そのテストに合格しないと高校には上げることはできないと言われました。

無菌室にいる間、本などの印刷物は極力持ち込まない方がいいと言われたため、課題や授業プリントなども私の場合は持ち込みを控えていました。バレエや学校の友達が色紙や手紙なども書いてくれていましたが、母が全てビニール袋やジップロックに入れて保管し、徹底的に外部からの細菌・ウイルス等の侵入を遮断していました。

その代わりというのか、iPadやDVDプレーヤー、Wiiを病室に持ち込み、これまでの人生の中で最大にグータラして過ごしました。復学をするにあたって、入院中にもっと勉強しとけば良かったのにと思われるかもしれません。しかし、私はこのグータラ入院生活を後悔していません。なぜなら、それまで学業にバレエにと本当に忙しかった。ゆっくり友達と遊ぶ暇もなかった。学校の行事にもまともに出れないほど根詰めてバレエに励んでいた私はどこか心の片隅に休息を必要としていたのです。

もちろん、白血病を発症し、バレエが出来なくなり学校にも通えなくなった私はとてつもない絶望感を抱きました。でも、今は治療に専念するしかないと吹っ切れた時、何もしない選択をしました。今まで出来なかったこと、きっとこれからの人生でもしないだろうことを思う存分やってしまおうと思ったのです。

そのため、無菌室でスーパーマリオギャラクシーは制覇したものの、学校の勉強はまるっきり置いてけぼりでした。

復学をするために、無菌室を出て四人部屋になった時から勉強を始めた私ですが、√(ルート)という新しい記号が出てきていて驚いたのを今でも覚えています。仲のいい看護師さんや時には主治医の先生に勉強を教えて貰ったりしました。

復学準備段階では、各教科の先生が個別で高校進学のためのテスト対策をしてくださいました。また、学校の先生の計らいで、中学三年生の時のクラスは私の大親友達が勢揃いしていました。そのおかげもあり通院等で遅刻しても教室に入りやすい環境があり、私はとてもスムーズに復学できたように思います。

ウィッグにマスクをしての登校で、髪の毛やムーンフェイスといった見た目の違いを自分自身とても気にしていました。何が一番しんどかったかと言えば、ちょうど卒業アルバムの写真撮影があったことですね。いま見返しても、私の顔は明らかに別人のようです。

勉強の方も、遅れを取り戻すため必死でした。一日中机に向かっている時もありました。でも、勉強することが苦ではなかったです。入院中、全く勉強しなかったことでさすがに勉強したいという気持ちが湧いてきたのだと思います。

そして、高校三年生の冬、無事にテストに合格し高校への進学許可をもらうことができました。一時は他の高校へ行くことも考えましたが、先生方や友達、両親の支えがあり同高校へ進学することができたこと本当に感謝しています。

勉強にしても、趣味にしても、家族や友達との時間もどんなことでも、失って初めて当たり前にできることの有り難さ、幸せを感じることができました。当たり前だと思っていたことは当たり前ではない、健康で平和な世の中だからこそ出来ていたことなんだと改めて実感しました。

病気が治り、神様が再び私に与えてくださった、何事にも感謝して生きるというチャンスを無駄にしないよう生きていきたいです。

骨髄移植後の経過として気をつけなければいけないものに、GVHD(移植片対宿主病)があります。そもそも、白血球は自分以外を敵と見なして攻撃する性質を持っており、それにより細菌等の異物を細胞内に取り込み無害化し、からだを異物の侵入から守っているのです。

しかし、移植されたドナーの造血幹細胞がうまく患者に生着し、患者の体の中をドナーの白血球が回るようになると、このドナーの白血球にとっては、患者の体は「他人」とみなされてしまいます。すると免疫反応を起こして患者さんの体を攻撃してしまうのです。この現象による病気をGVHDといいます。

GVHDを予防するために免疫抑制剤を使用します。免疫力が低下するために風邪やインフルエンザなどの感染症にかかりやすくなる易感染性や、糖尿病、満月様顔貌(ムーンフェイス)等まだまだありますが、免疫抑制剤にはざまざまな副作用があります。

中学3年生という多感な時期を副作用と共にした私は特にムーンフェイスにとても悩まされました。顔がパンパンに腫れてしまい、体重はそれほど変わらないのに以前よりも太ったように見えていました。身内から言われた「ふっくらしたね」という一言が、とても突き刺さったのを覚えています。

また、とくに主治医の先生に言われて驚いた副作用に骨密度が減少するというものがあります。「骨がもろくなって、骨折しやすいから気をつけてね」と言われた時には(骨折する薬って何?!なんのための薬?!)と思っていました。笑

そうして、移植後2ヶ月弱の間病室のベッドで感染や清潔には特に気を遣いながら大人しくしていた私は、幸い感染症やGVHD等を発症することなく無事退院を許可されました。

話は少し逸れますが、私の母は、私が病気になってからというもの、「いかに薬や放射線から私を守るか」ということを常に意識していました。ノニや酵素、体に吸収されやすいビタミン剤など医者に交渉しつつ、時にはこっそり私に飲ませていました。それが後の早い回復、卵巣の活動再開などに繋がったか否かははっきりとは分かりませんが、母なりの懸命な対策についても追々書いていきたいと思います。(もちろん推奨している訳ではありません。治療中はいけない行為なのかもしれないのであくまで体験として。)

退院後は、一日おきに病院に通いました。県内でも血液内科としてはトップの総合病院で、朝8時に行っても診察は昼過ぎが当たり前、点滴などによる治療により帰るのは夕方という日々でした。正直、これなら入院していた方がましとおもうくらい、病院の日は長い長い一日です。

そして感染面には特に気をつけました。家族全員が手洗いうがい、除菌をし、家の中にウイルスを持ち込まないように注意していました。食器や調理器具は家族とは別のものを使用し、使う前は全て煮沸消毒。ドアノブなど私がさわなものにはアルコールスプレーで除菌。本や教材なども全て一度アルコールのウエットシートで拭いてから使用していました。調理器具や食器などに不安を抱いていたため、外食はしませんでした。

コロナという名の肺炎が世界を飲み込もうとしている今だからこそ、免疫力が低下している方は特に本気で感染症対策をしなければならないと思います。

これくらい大丈夫だろうというような気持ちの緩み、油断が命を奪うことになるかもしれません。

周りの人は患者のことなど知らずに、ウイルスを保持していながらも外を歩いているかもしれないし、患者に話しかけるかもしれない。色々と公共のものを触っているかもしれない。

自分の体を守れるのは自分しかいません。小さな子供が患者であれば家族が徹底して守ってあげる必要があります。

守れるはずだった命、救われるはずだった命を無駄にしないためにも、できることは徹底的に行っていきたいですよね。

NEXT▷ 復学について

闘病生活も半年が経ちました。

2012年の春、幸運なことに骨髄バンクよりドナーの方が見つかり、私は造血幹細胞移植を受けることができました。

私には弟がいるのですが弟とはHLAの方が合いませんでした。(HLA型の適合率は、兄弟姉妹で4人に1人(25%)と言われており、血縁関係がないと数百人から数万人に1人の確率とされています。)

骨髄移植とは移植したからといって治るというものではなく、移植後の経過は一人一人異なり予測が難しく命に関わることもあります。

その上、移植の前処置における放射線治療や抗がん剤の投与は、「将来妊娠できなくなってしまう可能性がある」と説明を受けたそうで、まだ中学生という若い女の子から親になるという将来を奪ってしまう、そのことが治療の選択において両親を一番苦しめたことだったと言います。

父はすぐに産婦人科へ行き、卵子の凍結保存などによってどうにか妊娠できる方法はないかと聞いてくれたそうですが、当時の私は幼すぎて適用できなかったとのことです。もともとバレエという芸術という名のスポーツをしていたこともあり、生理が始まるのが遅く、始まっても周期的に来ることはなかったため卵子を摘出することが困難であったのだと思います。

当時の私の主治医は、本当に腕がいいことで有名な先生でしたが、少し厳しいところがありました。厳しいと言うと先生を悪者にするようで語弊を生むのですが、とにかく命を優先に考えていらっしゃったため、私の両親は妊孕性を失うことを恐れていたことに対して叱られてしまったそうです。

移植当日、無菌室には主治医に加え2、3人の血液内科トップの先生方が揃っており、手術のように妙に仰々しく始まったのを覚えています。「移植」は輸血のように、ドナーさんから頂いた幹細胞を点滴で投与します。造血幹細胞は、点滴の管から血管内に投与されると、患者さんの骨髄に流れ着き、そこで再び血液細胞を造るようになります。感染症の防御に最も重要な好中球の生着には、通常2~4週間程度かかります。

移植後は免疫力が著しく低下しているため、感染を引き起こさないよう徹底した清潔管理、食事制限などを行いました。何もかも消毒したおかげでふにゃふにゃになった本や教科書、滲んだインク、煮沸消毒しすぎて変形したあらゆる食器など当時はやりすぎと思いもしましたが、徹底した管理こそが両親の愛だったのだと改めて感じます。

骨髄移植しか助かる方法がなかった私には、たった一人のドナーの方が唯一の頼みの綱でした。法律上、レシピエントとドナーはお互いの個人情報を知ることはできませんが、今の私があるのは名前も知らないドナーの方のおかげ。神様のような存在のドナーさんには感謝してもしきれません。

ドナーが見つかること自体、奇跡的な事だと思います。しかし、その奇跡の母数を増やせば、もっと多くの患者の移植を受けることが出来る可能性が増えますよね。現在、芸能人を始め、多くの方が骨髄バンクへのドナー登録や献血の呼びかけを行っています。

残念なことに私は輸血をしているため、献血や骨髄ドナーになることはできません。なので健康な方を本当に羨ましく思います。

新型コロナの影響で外出が困難な状況ではありますが、献血、ドナー登録をしてくださる方が一人でも多く増えますように。

NEXT▷移植後の経過

治療は化学療法が主でした。

治療についての詳しい内容については追々書いていこうと思います。

抗がん剤による副作用は脱毛を始め、吐気、倦怠感、骨髄抑制等があります。また、様々な薬の内服・投与や毎日の採血、点滴、検査等。

こんなに辛いのいつまで続くんだろう、友達はどんどん前に進んでいるのに(勉強やらバレエやら)どうして自分だけ、、、。現実を受け入れられない日々が続きました。

それでも、私が頑張って治療を続けてこれたのは、

「早く治ってバレエがしたい!踊りたい!」

という強い目標があったから。

一緒に踊っていた仲間がコンクールに出たり、舞台で楽しそうに踊っていたりと、そんな姿を見るのは正直苦痛でしかなかった。

自分も早く踊りたくて踊りたくて仕方なかった。

点滴台を支えにして病室の窓を鏡代わりにして1人でバーレッスンをやっていました。ベッドの上でストレッチや甲伸ばしも欠かさず行っていました。体は動かせるのに、無菌室という隔離部屋から出れないことがもどかしく、それに加え日に日に抜けていく髪の毛を見ながらただただ絶望感を抱きました。ネット検索で髪の毛は一日に何ミリ生えて、どれくらいの日数で元に戻るのかなどを調べたりもしていました。もちろん男性の方もですが、女の子、女性にとって髪の毛というのはとても大事なものですよね。

そんなもどかしい気持ちを、病院の先生や看護師、家族は毎日のように聞いてくれました。

小児病棟ではなく、一般病棟に入院してきた中学生の女の子ということで、病院スタッフは何かと気にかけてくれ、可愛がってくださいました。

「絶対また踊れるようになるよ」

「色々なことを経験して、色々な感情を持ったまりあちゃんは病気になる前よりもずっとずっといい踊りが踊れるようになるから」

「次に舞台に立つ時は、絶対見に行くから招待してね」

などと言ってくれたことがどれほど私の励みになったことか、計り知れません。

このような支えがあったからこそ、絶対にまた舞台で踊りたいと強く願い、闘病生活を乗り越えて再び舞台に立つことができたら、きっと同じような病気の子供たちの希望になる。と、自分自身を勇気づけていました。

NEXT ▷ 骨髄移植

9年前、風邪のような症状が何日か続き、近くの病院で診察を受けましたが風邪と診断。

数日後、座っていられないほど腰が痛くなったため、学校を休み母と総合病院へ行きました。整形外科を受診したところ、その医師の的確な診断により病気を発見してくださり、私は訳も分からず別の病院へ行くことになりました。

説明もないままたくさんの検査をされ、気づくと窓の外は真っ暗に。出張先から駆けつけた父に「いつ帰れるの?」と聞いた記憶があります。早く帰りたいと思っていた私の思いも虚しく、連れていかれたのは無菌室というビニールに囲まれた殺風景な一人部屋。

そこで医師に告げられたのはこれから約1年間は入院しなければならないということでした。

それまで、バレエ漬けの生活を送っており数週間後に国際コンクールを控えていた私にとって、1日でもバレエを休むことが悲しくて、悔しくて毎日毎日泣きました。病院の先生や両親に当たってしまう事も多くありました。

当時、両親の希望で私には伝えられていませんでしたが、私の病気は「急性骨髄性白血病」という小児には珍しい型の白血病でした。

思えば症状はもっと前から出始めていたのかも知れません。学校での体育やバレエの途中に、急に視野の3分の2が暗くなり見えなくなることがありました。そして、その症状は30分後くらい続き、治ったと思ったら今度は急激な偏頭痛のような痛みに襲われるのです。

割と体に症状が出ていたのにも関わらず、それが異常と思わず友達と過ごすことやバレエが大好きだった私は「今休んだら、時間がもったいない」「もっと遊びたい、練習したい」という心理が働き、身体を労ることをしませんでした。我慢強いとかそういうことではなく、当時の私はただただ自分の身体に関する知識がなかったのです。

NEXT▷ 辛く、長い闘病生活