先日、復学の話をしましたが、実は復学より先にバレエ復帰をしていました。

なにせ、バレエをすることだけを目標にして治療を頑張ってきたので待ちきれなくて待ちきれなくて。

とはいえ、移植後すぐには以前と同じようにバレエ教室でみんなと同じメニューをするのは体力的にも感染面的にも難しいです。

そのため、バレエ教室がお休みの日に、教室を開けてもらい個別でレッスンをしていただきました。

ウィッグをつけて、マスクをつけてレッスンをすると、汗で蒸れて暑いし痒いしでとても辛い。

今でこそ、マスクがおしゃれの一部という時代になりましたが、コロナが流行る前まではマスクは風邪をひいた時につけるものという認識が強く、暑苦しいし好きじゃないという人も多かったですよね。みんながマスクをつけ、除菌をし、適度な距離感を保つようになり、免疫力が弱っている人からしたらこの世の中の風潮は少し有難いものだと思います。

個別レッスンでは筋力も落ちていて、はじめのうちは何をするにも体が重たく、手足が自分のものじゃないような、バラバラなような感じがしました。なんだか、全然できない自分が情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。

だけどそれ以上に、踊れる喜びというのを感じました。ブランクを感じて悲しいと思う反面、あんなに辛い闘病生活を乗り越えてきたんだ、ここからまたやり直せる、みんなに追いつく、追い抜きたいという前向きな気持ちがとても大きかったです。

また、私が早くからバレエに復帰したのには訳があって、その年の冬に教室の発表会があったから。私はどうしてもその舞台に立ちたくて、先生になんらかの形で出演させて貰えないか相談しました。

まだみんなと一緒に練習は出来ませんし、長いこと踊るのも体力的にしんどかったので、先生は短いバリエーションを一人で踊ることを提案してくださいました。

1分〜1分半あるかないかくらいの短い踊りですが、体力が皆無になっていた私にはとてもきつかった。家の近くの公民館の一室を借りて母と二人で何度も練習をしました。

その時、髪の毛は生えたてほやほやで薄ら後ろで結べるか結べないかというくらいでした。本番はウィッグではなく自髪でお団子にまとめて出たかったため、色々と試行錯誤し、一つ結びに付け髪をつけてネットでお団子にまとめることにしました。また、前髪も短く落ちてきてしまうため、髪色に近いターバンをつけ、白髪隠し用の黒いスプレーを吹きかけました。周りは無理だと言ったけれど、絶対できる、絶対やってみせるという意地で不可能を可能にしました。

発表会本番、私の出番にはバックスクリーンで私の踊っている動画を流しながら放送で私の闘病を語るという演出をしてくださいました。(動画はInstagramに載せています。)

https://www.instagram.com/miraclegirl___22/

私の復帰公演をこのように特別なものにしてくださった先生にはとても感謝しています。緊張はしたし、トゥシューズではなくバレエシューズだし、筋力もないしで納得のいく踊りではありませんが、でも、踊れる喜びを噛み締めて、とても幸せな気持ちで踊らせて頂きました。

小さい頃はプロのバレエダンサーになるという夢を持っていましたが、闘病を終えてバレエ復帰をした私はバレエという芸術を楽しみたい、とにかく楽しく踊っていたいと思うようになりました。

当時、私の通っていたバレエ教室は丁寧で熱心ではありましたが規則や指導が厳しく、発表会後みんなと一緒にレッスンを受けていく中で私はあれだけ好きだったバレエが嫌になってしまいました。

闘病中、バレエが踊れることを楽しみに、あれだけ頑張ってきたのにどうして練習を厳しい、苦しいと思わないといけないんだろう。同じバレエを踊るなら、楽しく踊りたい、どんな時でもバレエが大好きという気持ちでいたいと思ったのです。

そのため、たくさんお世話になったバレエ教室に感謝しつつも、高校からは別のバレエ教室へ移ることとなりました。

新しい教室では本当にたくさん踊る機会を頂きました。体調を考慮した上で、それでもいろいろな舞台や国内外のコンクールに挑戦させてくださり、楽しく、自由に踊らせてくださいました。また、優しくて、面白く、個性豊かな友達と出会えたことも、私の宝です。

病気になるってなんでしょうね。

私は約2年間の闘病生活で、移植後もGVHDや感染症を引き起こすことなく過ごすことが出来ました。でも、中にはもっともっと長く、終わらない闘病生活をしている人もいる。治療をしても感染や再発で苦しむ人もいる。

私は闘病中、ネットやテレビで、キラキラ輝いている人を見るのが大嫌いだった。健康で髪の毛もあって、ずるい、羨ましい。

だから、今闘病中の人が私のことを見たら嫌な気持ちになってしまうかもしれない。だって、髪の毛もロングヘアだし、毎日健康だし。

でも、知って欲しい。私も白血病だったってことを。髪の毛は最初はショートヘアだけど絶対に伸びてくるし、筋力もついて運動もできるようになる。コンクールに出て賞だって貰えるようになる。看護師という新しい夢もできて、勉強がもっと楽しくなる。

入院中、こうやって断言してくれる人が私の前に現れたらどれだけ救われただろうか。

病気が

神様が与えた試練だとしたら、乗り越えることに意味があるし、絶対に昨日の自分、数分前の自分より強く、誰にも負けない存在になってるはず。

ですよね。

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移植から約2ヶ月後に無事に退院してからは、当分の間自宅と病院との行き来でまだまだ復学できる状況ではありませんでした。

その間、学年主任や担任の先生は何度か個別で家庭訪問をして下さり、色々とお話ししました。学校の事、友達のこと、授業のことはもちろん、普段の生活や、入院中のことなど学校の先生というよりは話し相手として来てくださっていたように思います。

本格的に復学をしたのは移植から約半年後、中学3年生の秋のことでした。私の学校は中高一貫であったため、高校に上がるための学内テストを受ける必要があり、そのテストに合格しないと高校には上げることはできないと言われました。

無菌室にいる間、本などの印刷物は極力持ち込まない方がいいと言われたため、課題や授業プリントなども私の場合は持ち込みを控えていました。バレエや学校の友達が色紙や手紙なども書いてくれていましたが、母が全てビニール袋やジップロックに入れて保管し、徹底的に外部からの細菌・ウイルス等の侵入を遮断していました。

その代わりというのか、iPadやDVDプレーヤー、Wiiを病室に持ち込み、これまでの人生の中で最大にグータラして過ごしました。復学をするにあたって、入院中にもっと勉強しとけば良かったのにと思われるかもしれません。しかし、私はこのグータラ入院生活を後悔していません。なぜなら、それまで学業にバレエにと本当に忙しかった。ゆっくり友達と遊ぶ暇もなかった。学校の行事にもまともに出れないほど根詰めてバレエに励んでいた私はどこか心の片隅に休息を必要としていたのです。

もちろん、白血病を発症し、バレエが出来なくなり学校にも通えなくなった私はとてつもない絶望感を抱きました。でも、今は治療に専念するしかないと吹っ切れた時、何もしない選択をしました。今まで出来なかったこと、きっとこれからの人生でもしないだろうことを思う存分やってしまおうと思ったのです。

そのため、無菌室でスーパーマリオギャラクシーは制覇したものの、学校の勉強はまるっきり置いてけぼりでした。

復学をするために、無菌室を出て四人部屋になった時から勉強を始めた私ですが、√(ルート)という新しい記号が出てきていて驚いたのを今でも覚えています。仲のいい看護師さんや時には主治医の先生に勉強を教えて貰ったりしました。

復学準備段階では、各教科の先生が個別で高校進学のためのテスト対策をしてくださいました。また、学校の先生の計らいで、中学三年生の時のクラスは私の大親友達が勢揃いしていました。そのおかげもあり通院等で遅刻しても教室に入りやすい環境があり、私はとてもスムーズに復学できたように思います。

ウィッグにマスクをしての登校で、髪の毛やムーンフェイスといった見た目の違いを自分自身とても気にしていました。何が一番しんどかったかと言えば、ちょうど卒業アルバムの写真撮影があったことですね。いま見返しても、私の顔は明らかに別人のようです。

勉強の方も、遅れを取り戻すため必死でした。一日中机に向かっている時もありました。でも、勉強することが苦ではなかったです。入院中、全く勉強しなかったことでさすがに勉強したいという気持ちが湧いてきたのだと思います。

そして、高校三年生の冬、無事にテストに合格し高校への進学許可をもらうことができました。一時は他の高校へ行くことも考えましたが、先生方や友達、両親の支えがあり同高校へ進学することができたこと本当に感謝しています。

勉強にしても、趣味にしても、家族や友達との時間もどんなことでも、失って初めて当たり前にできることの有り難さ、幸せを感じることができました。当たり前だと思っていたことは当たり前ではない、健康で平和な世の中だからこそ出来ていたことなんだと改めて実感しました。

病気が治り、神様が再び私に与えてくださった、何事にも感謝して生きるというチャンスを無駄にしないよう生きていきたいです。

骨髄移植後の経過として気をつけなければいけないものに、GVHD(移植片対宿主病)があります。そもそも、白血球は自分以外を敵と見なして攻撃する性質を持っており、それにより細菌等の異物を細胞内に取り込み無害化し、からだを異物の侵入から守っているのです。

しかし、移植されたドナーの造血幹細胞がうまく患者に生着し、患者の体の中をドナーの白血球が回るようになると、このドナーの白血球にとっては、患者の体は「他人」とみなされてしまいます。すると免疫反応を起こして患者さんの体を攻撃してしまうのです。この現象による病気をGVHDといいます。

GVHDを予防するために免疫抑制剤を使用します。免疫力が低下するために風邪やインフルエンザなどの感染症にかかりやすくなる易感染性や、糖尿病、満月様顔貌(ムーンフェイス)等まだまだありますが、免疫抑制剤にはざまざまな副作用があります。

中学3年生という多感な時期を副作用と共にした私は特にムーンフェイスにとても悩まされました。顔がパンパンに腫れてしまい、体重はそれほど変わらないのに以前よりも太ったように見えていました。身内から言われた「ふっくらしたね」という一言が、とても突き刺さったのを覚えています。

また、とくに主治医の先生に言われて驚いた副作用に骨密度が減少するというものがあります。「骨がもろくなって、骨折しやすいから気をつけてね」と言われた時には(骨折する薬って何?!なんのための薬?!)と思っていました。笑

そうして、移植後2ヶ月弱の間病室のベッドで感染や清潔には特に気を遣いながら大人しくしていた私は、幸い感染症やGVHD等を発症することなく無事退院を許可されました。

話は少し逸れますが、私の母は、私が病気になってからというもの、「いかに薬や放射線から私を守るか」ということを常に意識していました。ノニや酵素、体に吸収されやすいビタミン剤など医者に交渉しつつ、時にはこっそり私に飲ませていました。それが後の早い回復、卵巣の活動再開などに繋がったか否かははっきりとは分かりませんが、母なりの懸命な対策についても追々書いていきたいと思います。(もちろん推奨している訳ではありません。治療中はいけない行為なのかもしれないのであくまで体験として。)

退院後は、一日おきに病院に通いました。県内でも血液内科としてはトップの総合病院で、朝8時に行っても診察は昼過ぎが当たり前、点滴などによる治療により帰るのは夕方という日々でした。正直、これなら入院していた方がましとおもうくらい、病院の日は長い長い一日です。

そして感染面には特に気をつけました。家族全員が手洗いうがい、除菌をし、家の中にウイルスを持ち込まないように注意していました。食器や調理器具は家族とは別のものを使用し、使う前は全て煮沸消毒。ドアノブなど私がさわなものにはアルコールスプレーで除菌。本や教材なども全て一度アルコールのウエットシートで拭いてから使用していました。調理器具や食器などに不安を抱いていたため、外食はしませんでした。

コロナという名の肺炎が世界を飲み込もうとしている今だからこそ、免疫力が低下している方は特に本気で感染症対策をしなければならないと思います。

これくらい大丈夫だろうというような気持ちの緩み、油断が命を奪うことになるかもしれません。

周りの人は患者のことなど知らずに、ウイルスを保持していながらも外を歩いているかもしれないし、患者に話しかけるかもしれない。色々と公共のものを触っているかもしれない。

自分の体を守れるのは自分しかいません。小さな子供が患者であれば家族が徹底して守ってあげる必要があります。

守れるはずだった命、救われるはずだった命を無駄にしないためにも、できることは徹底的に行っていきたいですよね。

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